【星に願いを!】七夕の意味や由来は?短冊には何を書く?

 

 

七月七日は七夕。一年に一度、織姫と彦星が出会うと言われている日。この行事、一体いつから行われているか知っていますか?織姫と彦星の伝説はどこから?短冊に書く願い事は決められていた?七夕飾りの意味って?その由来などを説明していきます。

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笹を飾ったり、短冊にお願い事を書いたり……皆様は七夕をどう過ごしていますか?
子どもの頃に織姫と彦星のお話を聞いた方もいるかもしれません。
「五節句」の一つでもある七夕は、一体いつから始まったのでしょうか。

そもそも「たなばた」って?

 日本では古来、正月と七月の、月が満月になる十五日は、祖先の霊を迎える祀(まつり)の日で、正月の七草の日とともに七月七日(ナヌカビ)は、十五日の祀りの準備に入る斎日(いわいび)でした。

七月七日頃はちょうど稲の開花期。水害や病害虫が心配される時期でもあったことから、稲の収穫の無事を祈ろうと七夕をもって田ノ神の祭りとし、水辺に設けられた棚の上の機家(はたや)の「棚機」(たなばた)で、選ばれた乙女たちが先祖に捧げる御衣(みころも)を織り上げました。この乙女たちを「棚機女」、「織女」と書き、″タナバタツメ″と読みました。

この行事が、中国の星祭りと結びついて、「たなばた」を「七夕」と書くようになったと言われています。

「たなばた」という名前は織り機から来ていたんですね!
それでは、なぜ織姫や彦星の伝説が混じるようになったのでしょうか。
織姫と彦星の伝説は、中国の星祭り「乞巧奠(きこうでん、きっこうでん)」という行事から来ています。

織姫と彦星の伝説は何から?

乞巧奠(きこうでん)は、織女星にあやかってはた織りや裁縫が上達するようにと、7月7日にお祈りをする中国の行事。庭先の祭壇に針などをそなえて、星に祈りを捧げる。やがてはた織りだけでなく芸事や書道などの上達も願うようになった。この行事が日本の七夕行事の由来の一つとも言われている。
むかし、天に織女(しょくじょ)という手芸にすぐれ、機織が巧みな娘がいました。ところが牽牛(けんぎゅう)という婿を迎えてからは、手芸をおろそかにし、機織も怠けだしたため、天帝(てんてい)は怒って、牽牛を銀河の対岸に別居させ、年に一度、七月七日の夕べにだけ逢うことを許しました。
それ以来、牽牛はこの日が来ると天の川を渡って織女に会いに来るという伝説があって、中国では七月七日にこの牽牛と織女のニ星を祀って技芸の上達を祈る乞巧奠という行事がおこなわれてきたと伝えられていました。
二人の逢瀬を祝うために、「乞巧奠」という行事が催されるようになったのですね。
ちなみにこの行事、短冊に書くお願い事にも大きく関わってきます。

短冊に願い事を書くようになったのは?

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笹竹に短冊をつるして願い事をするようになったのは、江戸時代から。手習いごとをする人や、寺子屋で学ぶ子が増えたことから、星に上達を願うようになったのです。本来はサトイモの葉に溜まった夜露を集めて墨をすり、その墨で文字を綴って手習い事の上達を願います。サトイモの葉は神からさずかった天の水を受ける傘の役目をしていたと考えられているため、その水で墨をすると文字も上達するといわれているからです。こうした本意を踏まえると、短冊には「○○が欲しい」というような物質的な願いごとではなく、上達や夢を綴ったほうがよいとされています。
 七夕祭りはその後もながく行われてきましたが、宮廷と武家に限られたもので、これが民間に伝えられるようになったのは、近世に入ってからのことです。江戸時代の寺子屋教育の影響によって、織女星と牽牛星の星が一年でもっとも近づく七月七日にはこれを祭って、女の子は手芸の上達を願い、男の子は手習いの上達を願いました。また、幕府が七夕をふくむ五節句を制定したこともあり、七夕祭りは全国に広がっていったのです。
短冊には芸事の上達などの願い事を書いた方が良いそうです。
でもついつい、「お金持ちになりたい」なんて書いたことのある人もいるのでは……?

七夕飾りの意味は?

七夕の時に飾る笹には、短冊をはじめとした様々な飾りを付けます。
その一つ一つには意味があることをご存じですか?七夕飾りの代表的なものは、

・紙衣
・巾着
・投網
・屑籠
・吹き流し
・千羽鶴
・短冊

です。一つ一つの意味を紹介していきます。

紙衣 女子の裁縫の腕が上がるように
巾着 お金が貯まりますように
投網 豊漁になりますように
屑籠 整理、整頓、物を粗末にしないように
吹き流し 織姫のように機織が上手になりますように
千羽鶴 家族が長生きしますように
短冊 願い事がかない、字が上手になりますように
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現代に残る七夕まつり

江戸時代から400年以上経った今も、各地で七夕まつりが行われています。
中でも「仙台七夕まつり」は、日本で行われる七夕まつりの中でも屈指の歴史を持つまつりです。
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「仙台七夕まつり」で飾られる七夕飾りです。
江戸時代初期、仙台藩祖の伊達政宗が婦女に対する文化向上の目的で七夕を奨励したため当地で盛んな年中行事の1つになったともされるが、詳細は不明のままである。年中行事としての七夕は江戸時代中期頃から全国各地で行われている。1783年(天明3年)には、天明の大飢饉発生による荒廃した世俗の世直しを目的に藩内で盛大に行われた。
なんと!あの有名な伊達政宗が七夕を行うよう勧めていたんですね!
しかしながら、ずっと盛大に行われていたわけではありません。
明治時代に入り、新暦が採用されるようになったのを境に、次第に七夕の風習は廃れていくようになりました。
では、どうしてまた七夕まつりが行われるようになったのでしょうか。
1927年(昭和2年)、この状況を憂えた商店街の有志らによって大規模に七夕飾りが飾られた。すると、大勢の見物客で商店街は賑わった。翌1928年(昭和3年)には旧暦開催を新暦日付の月遅れ(8月6日・7日・8日)に開催することとし、東北産業博覧会と関連して「飾りつけコンクール」も行われ以降、華麗な飾りつけが発達するようになった。このようにして、「七夕」という庶民の風習は「七夕祭り」という昼間の商店街で行われるイベントへ転換した。
これ以降、戦争を挟みつつも七夕祭りは開催され続け、現在へと至ります。
戦後には、仙台以外の都市でも七夕まつりが開かれるようになりました。
あなたの住む街では開催されていますか?
参加してみるのもいいかもしれません。
何気なく過ごしていた七夕ですが、このような由来があったのですね!
是非ご家族や友人にも話してみては……?
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