女の子のお祭りとして知られている雛祭りは、縁起のいいお祭りでもあります。そんな縁起のいい雛祭りにはどんな歴史があるのでしょうか。雛祭りの正しい期間やお祝いの方法と合わせて大調査しました。ご紹介しますので、ぜひ参考にしてくださいね。
もくじ
雛祭りの歴史とは?
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女の子のお祭りとして知られる雛祭り。お祝い事でもありますから、縁起がいいとも言われています。
そんな雛祭りはいつから始まったのでしょうか?そのルーツや正式な時期を知らない人もいるかもしれません。
雛祭りの歴史について調べましたので、ご紹介します。
中国の「上巳(じょうし)」がルーツと言われている
日本で知られている雛祭りは、実は中国から来た「上巳(じょうし)」がルーツと言われています。
中国では、漢王朝の時代(前漢:紀元前206年~紀元後8年、後漢:25年~220年)に、すでに雛祭りの原型となっている「上巳」という行事が執り行なわれていました。
『後漢書』という歴史書には、「官民がそろって水辺に身を清め、厄を落とす」という記述があります。日本の僧侶が行なう滝行に少し似ていますね。
ですが、この行事はやがて人工的に作った池のようなものに盃を浮かべ、その盃に酒を注いで飲むという行事に変わります。水で浄化した酒を飲むことで、身も心も浄化されるという考え方に変わったようです。
このように、日本の雛祭りは中国の「上巳」がルーツですが、そのルーツとなっている行事の内容は、身を清めてるための厄祓いのようなものだったのです。
平安時代にはその原型があった
日本に中国の「上巳」という行事が伝わったのは、平安時代だったと言われています。
ただ、日本には当時、すでに紙で作った人形を川に流す「流し雛」と呼ばれている行事が存在していました。厄祓いを意味する人形を紙で作り、それを川に流すことで厄などのような悪いものが流れていくという行事です。
中国の「上巳」も厄祓いが目的の行事です。また、「上巳」も「流し雛」も同じ旧暦の3月上旬ごろに行なわれていました。この二つの一致から、日本では中国の上巳と日本の流し雛が合わさって、「雛祭り」という行事ができたと言われています。
江戸時代に入って今の形になった
現在の雛祭りは、自宅に雛人形を飾ってお祝いをしますよね。このスタイルになったのは江戸時代に入ってからと言われています。それまでは、流し雛を行なうというどちらかというとお祓いに近い行事として、一部の高貴な地位の人たちの間で執り行なわれていました。
江戸時代に入ると、紙で作った人形ではなく、立ち雛や座り雛のような人形が作られるようになります。これと同時に、庶民にも少しずつ雛祭りが定着し始めていきました。
雛人形が現在のように豪華になったのには、武家などのような身分の高い人たちがきっかけと言われています。可愛い娘の一生分の災いを雛人形に身代わりになってもらう、という考えから、精巧で豪華な雛人形をしつらえる方が効果があるとされたのです。
雛祭りの時期は必ずしも同じではない
多くの人たちは「雛祭りは3月3日」と思っているでしょう。カレンダーやスケジュール帳の3月3日の欄にも「ひな祭り」という記載がありますよね。
ですが、雛祭りが執り行なわれるようになった時代と現在とでは、その時期にかなりのずれがあります。また、現在も場所によっては雛祭りの時期が異なるということがあるのです。
そんな雛祭りの時期についてご紹介しましょう。
江戸時代までは旧暦での3月3日が一般的だった
雛祭りの時期は、江戸時代までは旧暦の3月3日に執り行なうのが一般的でした。これは現在の4月頃にあたります。
雛祭りの原型となっているのは中国の「上巳」という厄払いの儀式だというのは説明しました。その儀式の内容は、川の水に浸かって身を清め、厄を落とすというものです。
想像してみてください。現在の3月3日と言えば、場所によってはまだ雪がちらつくような寒い時期です。そんな時に、いくら厄払いのためとは言え、川の水に入って身を清めるなんてことができるでしょうか?
4月なら外の日差しも暖かく、川の水の冷たさもだいぶ和らいでいます。川に入って身を清めるという儀式もできるでしょう。
日本でも当時は旧暦が使われていました。ですから、日本で雛祭りが始まった当初は4月上旬ごろだったのです。
現在の時期になったのは明治に入ってから
明治時代に入ってから改暦が行なわれ、現在のグレゴリオ暦が使われるようになります。この時、雛祭りもグレゴリオ暦に合わせて現在の3月3日になったのです。
ただし、東北地方や北陸などのような寒冷地では、3月3日はまだまだ雪が深いため、雛祭りをお祝いするような状態ではありません。そこで、旧暦の3月3日や新暦の4月3日にお祝いするところが多くなっています。
兵庫県の一部では旧暦8月1日だった
兵庫県の一部では、旧暦の8月1日を「雛祭り」としてお祝いしていました。これは、悲しい歴史が関係しています。
永禄9年1月11日、城主の次男が武将の娘と祝言を挙げました。その夜、敵対していた別の城主の襲撃に遭い、城の落城と共に花嫁と花婿も非業の死を遂げてしまいます。その土地の人たちはこの出来事と同時に亡くなってしまった花嫁を思って悲しみました。その魂を鎮めるため、3月3日ではなく、半年さらに遅らせて8月1日に雛祭りを延期したのだとか。
この風習は長く続きますが、戦後にいったん途絶え、3月3日に雛祭りが行なわれるようになります。ですが、花嫁を鎮魂する気持ちを忘れてはならないという理由から町おこしの一環も兼ねて「八朔ひな祭り」という名称で復活しています。
雛祭りに飾る雛人形にも違いがある
雛祭りを飾る雛人形、あなたのお家ではどのように飾っているでしょうか。
実は雛人形の飾り方はその土地や地方によって異なっているのです。
地方や土地によって異なる雛人形の飾り方についてご紹介します。
西日本での雛人形の飾り方
京都を中心とした西日本では、お内裏様は向かって左側に飾られます。京都御所の天子様の玉座の位置が左側だからです。
何故、天子様の玉座が左側なのかというと、日本には「左上右下(さじょううげ)」という礼儀作法があります。日が昇る東(左側)の方が、日が沈む西(右側)よりも尊いという考えに基づいた礼儀作法です。
女性に比べて男性の方が尊いという考えもあったため、西日本ではお内裏様は向かって左側に飾られるのだそうです。
東日本での雛人形の飾り方
東日本では、お内裏様は向かって右側に飾ります。これには大正天皇が大きくかかわっていると言われています。
大正天皇がご即位された時、すでに西洋の考え方や礼法が日本にも入ってきていました。その西洋式の礼儀作法に則って、大正天皇は皇后陛下の右側に立たれたのだそうです。
大正天皇の西洋スタイルを受けて、この頃からお内裏様は向かって右側に飾られるようになったと言われています。
まとめ
女の子のお祭りとして毎年3月3日には、日本の各地で盛大にお祝いがされます。とても縁起のいい日として、女性は新しいことを始める人も多いのだとか。
そんな雛祭りには、実は長くて深い歴史があることがわかりました。また、地方によってお祝いする時期や雛祭りの飾り方が異なっているというのも驚きでしたね。
最近はお雛祭りをあまりしないという人も増えてきているようです。ですが、雛祭りは厄祓いの儀式の一つでもあります。お内裏様とお雛様だけでも飾って、ぜひ雛祭りをお祝いしてみてください。