聖徳太子のお墓はどこにある?叡福寺境内の聖徳太子御廟所を徹底解説!!

 

「聖徳太子」と言えば、誰もが聞いたことがある偉人の一人です。昭和33年から昭和61年まで発酵された、1万円札に描かれていた人物としても有名ですよね。

しかし聖徳太子の晩年や、お墓についてはあまり知られていないのではないでしょうか。

今回は聖徳太子のお墓がある「叡福寺」について、調べてみました。
聖徳太子の人物像を振り返りながら、なぜ「叡福寺」にお墓を設けたのかという理由も詳しく見てみましょう。

もくじ

聖徳太子とは?

まず聖徳太子の人物像と、歴史にどんな影響を与えたのかを見てみましょう。

聖徳太子は用明天皇の第二皇子として、574年2月7日に誕生しました。
当初は聖徳太子ではなく、「厩戸皇子(うまやどのみこ)」という名で呼ばれていました。ちなみに「聖徳太子」という名前は、亡くなった後に贈られた「諡号(しごう)」のため聖徳太子自身が名乗っていた通称ではありません。

聖徳太子の様々な功績は、日本史の教科書でも語られていますよね。
・中国に「遣隋使」の派遣する
・政治に関わる役人をクラス分けする「冠位十二階」の制定を執り行う
・日本で最初の憲法とされる「十七条の憲法」の制定する

上記にある聖徳太子の代表的な行いは、後々の歴史の政治にも大きな影響を与えました。
聖徳太子は推古天皇の「摂政」として、政治を支え人々を助けてきたと言われています。

・聖徳太子の晩年とは
教科書に掲載されている聖徳太子の偉業は、摂政としての活躍がほとんどですよね。
聖徳太子は政治の世界から引退した後、晩年は仏教の教えを日本に根付かせるための研究に勤しんだと言われています。

当時は天皇の親権争いや、貴族の身分格差などの対立が絶えず起こっていました。
聖徳太子は自分が亡くなった後も権力争いを鎮め、地位に執着しない国家を作るために仏教の教えをより多くの人へ広めようと考えていたのではないでしょうか。

聖徳太子のお墓はどこにある?大阪府南河内郡太子町にある叡福寺

聖徳太子は48歳で病に倒れて、亡くなります。死因は断定されていませんが、伝染病だったのではないかと言われています。

当時は食中毒や怪我の悪化で命を落とす人も多く、現代と比べると平均寿命も大変短い時代でした。

聖徳太子は生前に自分の埋葬場所を決めていたため、亡くなった後は推古天皇が聖徳太子のお墓を守るためにお寺を建設したと言われています。
後から聖徳太子の魂を弔うために作られたという、「叡福寺(えいふくじ)」について詳しく見てみましょう。

叡福寺とは?

大阪府南河内郡太子町にある叡福寺は、聖徳太子のお墓がある地として有名な場所ですね。
霊廟(死者を祀る場所)は聖徳太子が生前に訪れ、47歳の時に作ったと言われています。
その後に推古天皇が聖徳太子の魂を弔うために、叡福寺を建設したとされています。

叡福寺の石段を登ると、まず南大門が出てきます。門をくぐると、「宝塔」・「金堂」・「聖霊殿」の3つの建物が目に入ります。
建物の奥にあるなだらかな森のようになっている部分が、聖徳太子が祀られている霊廟「太子廟」です。

・聖徳太子の霊廟と言われているのが「叡福寺北古墳」
聖徳太子の時代は墓石を建てて埋葬する風習ではなく、土を盛り上げた「古墳」と呼ばれる建設物の中に埋葬していました。古墳は貴族や天皇が亡くなった時に建設を行い、権力や影響力によって大きさが異なります。
また時代によっても形状は様々あり、現代にもたくさんのタイプの古墳が残されています。

聖徳太子が亡くなった後に埋葬された場所は、「叡福寺北古墳」と呼ばれています。
これが生前の聖徳太子が作っていたとされる、自身の霊廟です。
横穴古墳で直径約55mあり、高さは7mもある巨大な円の形をしています。土を盛るだけでなく切り石を使い、実に精巧に作られているのが特徴的です。

実は聖徳太子以外にも、霊廟には血縁関係ある人物が一緒に埋葬されています。
・穴穂部間人(あなほべのはしひと)・・・聖徳太子の母
・膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)・・・聖徳太子の妻
3人の棺を同じ場所に埋葬していることから、「三骨一廟(さんこついちびよう)」と呼ばれ大切に祀られてきました。

仏教を日本に取り入れた先駆者とも言える存在の聖徳太子の霊廟は、空海・親鸞・一遍など仏教の宗派を開いた名高い僧侶も続々と訪れています。
聖徳太子の思想は時代を超えて多くの人に語り継がれ、深く信仰されてきたのがわかりますね。

叡福寺へのアクセス

叡福寺を訪れる場合、どんなルートで行けば良いのか見てみましょう。
最寄り駅は近鉄長野線の「喜志駅」、または近鉄南大阪線「上ノ太子駅」になります。

駅からは路線バスを使って、叡福寺へ向かうのがおすすめです。
喜志駅からは金剛バスの「喜志駅前」乗り場から、「太子線」・「太子まわり循環」・「茶室まわり循環」の3路線が利用出来ます。

近鉄南大阪線「上ノ太子駅」からは、「上ノ太子」乗り場から「太子線」を利用しましょう。
どちらの駅からも、「太子前」で降車すればOKです。

「太子前」のバス停からは、徒歩3分程で叡福寺にたどり着くことが出来ます。

なぜ聖徳太子のお墓は叡福寺にある?

聖徳太子は生前埋葬される場所を決めていたと言われますが、なぜ叡福寺が建設された場所を選んだのでしょうか。

・叡福寺周辺は「蘇我氏」ゆかりの地
聖徳太子の父と母は、代々天皇家を受け継ぐ「蘇我氏」の家系であったと言われています。当時は近親者同士の結婚も珍しくなく、血縁を残すために親戚同士で夫婦になることも多かったのです。

蘇我の家系は叡福寺が建設された大阪府南河内郡太子町にゆかりがあり、叡福寺周辺にも蘇我氏ゆかりの人物の古墳がたくさん残されています。

ちなみに聖徳太子の父「用明天皇」や、叔母にあたる「推古天皇」のお墓とされる古墳も叡福寺周辺で見つかっています。

聖徳太子はそうした「蘇我氏」の縁から、叡福寺にあたる位置に自分の埋葬を決めていたのではないでしょうか。

また「叡福寺に聖徳太子のお墓がある」と言われる根拠は、日本書紀に残されています。
・「是の月、上宮太子を磯長陵に葬る」

「是の月」とは推古29年2月のことを差し、聖徳太子を古墳へ埋葬されたとされる年月です。「上宮太子」とは、聖徳太子のことを差しています。

その下に繋がっている「磯長」とは地名であり、叡福寺北古墳のある地域一帯のことを示しています。「陵」は丘のように大きなお墓の「古墳」を表す言葉と伝えられています。

まとめ

聖徳太子は日本史に欠かせない人物ですが、晩年は詳しく学校では紹介されませんよね。
若い頃より政治に深く関わっていた聖徳太子は、摂政の役職を退任後には仏教の教えを広めるため研究に勤しんでいたと言われています。

聖徳太子が亡くなった後に叔母にあたる推古天皇が魂を弔うため、叡福寺を建設したのは聖徳太子の偉業と信仰心に深く感銘を受けたからなのではないでしょうか。

叡福寺には聖徳太子が生前建設したと言われる、太子廟「叡福寺北古墳」があります。
直径約55m・高さ7mの巨大な円状の古墳には、聖徳太子の母と妻も一緒に祀られています。
空海・親鸞・一遍など仏教の宗派を開き、布教に務めた彼らも参拝した場所と言うのは感慨深いものがありますね。

また太子廟の他にも、指定文化財に登録された「金堂」など歴史的価値の高い建造物がたくさんあります。叡福寺を行かれる際には、現在の憲法や仏教の礎を築いたとされる飛鳥・奈良時代へ思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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