歴史上の人物の聖徳太子。過去にはお札に描かれていたこともあります。たくさんの功績を残したことでも知られる聖徳太子ですが、実は存在しなかったという説があるのを知っていますか?その理由は聖徳太子にまつわる謎を紐解くことでわかります。歴史も振り返りながら、その謎に迫ってみましょう。
もくじ
聖徳太子の歴史【幼少期】
聖徳太子を知るうえで大切なのは、彼にまつわる歴史です。聖徳太子の歴史には、たくさんの噂や謎が含まれています。
まずは聖徳太子が生まれた時から幼少期までを紐解いてみましょう。
お釈迦様の骨を握って生まれてきた?
赤ちゃんは生まれた時、みんな手を握り締めています。その姿はまるで何かを握っているようです。実際には何も握っていないんですけれどね。
聖徳太子も生まれてきた時には、手を握り締めていました。通常なら、その手には何も握られていないのですが、聖徳太子はその握りしめられた手の中に、お釈迦様の骨である仏舎利(ぶっしゃり)があったと言われています。
これは、聖徳太子が仏教の象徴として考えられていたため、そこから生まれた伝説だと思われます。
2歳で「南無仏」と唱えて周囲を驚かせた
聖徳太子はわずか2歳で「南無仏(なんぶつ)」と唱えて仏様にお祈りをしたと言われています。その姿を見た周りの人たちはたいそう驚いたのだとか。
多くの子供はまだ2歳ではほとんど言葉を話しません。発育の早い子供であっても、難しい言葉を話すことはほとんどなく、片言の単語を話す程度でしょう。
それなのに難しい仏教用語を唱えながら仏様にお祈りをするなんて、誰でも驚いてしまいますよね。また、この時聖徳太子は、仏舎利を手に握りしめて祈りを捧げていたとも言われています。
7歳から仏教について勉強し始めた
聖徳太子はわずか7歳で仏教についての勉強を始めます。特に先生をつけて勉強していたのではなく、独学で始めたようです。
仏教の勉強は文字を学ぶという勉強とは異なり、難しい言葉や漢字がたくさんあります。そのため、7歳の子供が独学で勉強できるような学問ではありません。大人でも、専門的な知識のある師に教えてもらっていたほどです。
その真偽は明確になっていません。ですが、聖徳太子は仏教を広めることに大変熱心でした。その考え方や姿勢から、このような逸話が生まれたのかもしれません。
聖徳太子の歴史【青年時代】
聖徳太子の青年時代は、波乱に満ちています。
波乱に満ちた青年時代が、のちの聖徳太子の偉業につながったのかもしれませんね。
そんな聖徳太子の青年時代を紐解いてみましょう。
12歳で父親が天皇に即位
聖徳太子が12歳の時、父親が天皇に即位します。学校の歴史ではあまり詳しく勉強しませんが、「用明天皇(ようめいてんのう)」と言います。
用明天皇の功績として、日本に仏教を定着させたことが挙げられるでしょう。用明天皇は仏法を重んじていました。日本に仏教を定着させたいとずっと思っていたんですね。
天皇に即位したと同時に、仏教を公認の宗教として制定したのが用明天皇です。
父親が強い仏法派だったので、聖徳太子も仏教を日本に広めることに熱心だったのです。
14歳で父が崩御
仏教を日本公認の宗教に制定した聖徳太子の父、用明天皇は天皇に即位後わずか2年で崩御(ほうぎょ)します。
当時の日本は王侯貴族のさまざまな思惑が行き交っている混とんとした時代でした。そのため、用明天皇の崩御の原因は暗殺と思われがちです。
ですが、実際には疱瘡で崩御されたと日本書紀に記されています。疱瘡とは、天然痘のことで当時は不治の病として恐れられていました。
用明天皇が崩御されたのは聖徳太子が14歳の時です。現在なら、まだ子供とも言える年齢です。そんなときに父親が亡くなり、聖徳太子の運命は大きく変化していきます。
初陣で勝利
用明天皇が崩御した後、仏法反対派だった物部氏が一気に攻め込んできます。崩御を機会に、仏法そのものも日本から追い出してしまおうと考えたのです。
これに対抗したのが聖徳太子でした。聖徳太子は物部氏を打ち破るべく初陣します。そして、物部氏の軍勢を抑え込んで勝利を収めました。
聖徳太子が初陣で勝利を飾ったのは14歳の時です。まだ、父親である用明天皇が崩御し、その悲しみから癒えない間に戦いに巻き込まれてしまったのです。
摂政になってからの活躍
聖徳太子が初陣で物部氏に勝利したのち、日本では推古天皇が天皇の座に就きます。推古天皇は聖徳太子の叔母にあたる人です。
叔母である推古天皇は聖徳太子の頭の良さや仏教に対する熱心さをよく知っていたので、彼を摂政に任命しました。
私たちがよく知っている聖徳太子の活躍は摂政についてからのことです。
冠位十二階
冠位十二階は、その人の功績によって高い地位が与えられる新しい人材登用の方法です。
それまでは完全な世襲制で、どれだけ優秀でも家柄が高くなければ、高い地位に就くことはできませんでした。
聖徳太子はそれを廃止し、頭の良さや功績によって誰でも高い地位に就くことができる冠位十二階を制定しました。
十七条憲法
十七条憲法は、政治にかかわる人たちのために道徳心や心掛けを書いたものです。
現在の憲法とは異なり、人間として政治に関わる方法や心構えなどが書かれていました。
わかりやすく説明すると、私腹を肥やすのではなく、国民のために働きなさいということを説いていたのです。
国史の編纂
聖徳太子は摂政についてから、それまでの日本の歴史についての書物を書き始めました。
「天皇記」と呼ばれるもので、皇室の系統や彼らにまつわる歴史などが書かれた歴史書だったようです。
また、これと同時に「国記」と呼ばれる歴史書も編纂していたと言われています。こちらは日本の国の歴史に特化した歴史書だったようです。
ただ、「天皇記」も「国記」も大化の改新の時に焼失し、現存していません。聖徳太子が膨大な量の国史の編纂をしていたという記述は、日本書紀に記されています。
聖徳太子は本当にいた?
聖徳太子のことは、日本の歴史で勉強する機会があります。聖徳太子は仏教と大変ゆかりが深く、たくさんの功績を残した偉人としても知られています。
ですが、そんな聖徳太子は本当はいなかったのではないか、という説が浮上しています。
どうしてそのような説が浮上しているのかを解説していきましょう。
厩戸皇子は本当にいた
「聖徳太子」という名前は、「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」の別の名前だと言われています。
厩戸皇子は実在していました。さまざまな歴史書には、厩戸皇子が飛鳥時代の政治家として記されています。
また、その出生も用明天皇の息子として記されていて、実在していたことが明確になっています。
聖徳太子が登場するのは摂政になった後
「聖徳太子」という名前が登場するのは、推古天皇が即位されてからです。
それまでは「聖徳太子」という名前はどの書物にも登場せず、その出生もはっきりわかっていません。
聖徳太子は歴史上である瞬間から登場した謎の人物なのです。
摂政後の功績をすべて一人で行なったとは考えられない
聖徳太子は摂政に就いた後、冠位十二階や十七条憲法、国史の編纂などを手掛けたと日本書紀には記されています。
ですが、これらは書物にすると大変膨大で、とても一人ですべてを書き連ねたり編纂したりすることはできません。
また、用明天皇の息子である厩戸皇子が、冠位十二階や十七条憲法に関与したという記録もありません。
聖徳太子の出生が謎なばかりか、厩戸皇子が聖徳太子の偉業に関与していたという証拠もないのですから、聖徳太子と厩戸皇子が同一人物であるという説は大変疑わしいものになります。だから、聖徳太子は実在しなかったのではないか、と言われているのです。
聖徳太子は天皇の血筋が作り出した偶像?
聖徳太子は、天皇の血筋が作り出した偶像ではないかという説があります。
天皇の力が弱まってきた頃、その血筋を確かなものにするために聖徳太子という人物を作り出し、その功績を広めようとしたのでしょう。
その上で、「こんな素晴らしい功績を残した確かな血筋が私にはある」と宣言し、日本を一つにまとめようとしたのではないかと言われています。
人間は素晴らしい功績と確かな血筋があれば、その人についていくという習性がありますからね。それを上手に取り入れて政治を執り行なおうとしたのかもしれません。
まとめ
歴史を学ぶ上で、一度はどこかで耳にする聖徳太子。その正体や出生は、たくさんの謎に包まれています。
ですが、聖徳太子が残したとされる功績は、仕事の仕方や生き方を説いたものが多く、現在にも活用できるものばかりです。
聖徳太子の功績を学んで、自分の生き方に取り入れてみるのも良いかもしれません。